過去の展覧会

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2014年12月20日(土)- 2015年1月24日(土)

松井智惠 Chie Matsui: a story - とんがり山
  • オープニングパーティー 11月29日(土)19:00 - 無料 ※ 終了致しました

  • 関連イベント:即興Live “a story - four seasons”
    2015.1.16 fri 19:00 open / 19:30 start charge ¥2,000. inc. 1 drink ※ 終了致しました
    出演:ナカタニ タツヤ (パーカッショニスト, from USA) / .es (橋本孝之 & sara) / 児林貴美 (dance)
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松井智惠、ギャラリーノマルでの初個展は版画工房 ノマルエディションとのコラボレーション・ワーク

今年開催された大原家旧別邸有隣荘(大原美術館主催)での個展、また横浜トリエンナーレでの展示等が大変好評を博している松井智惠。
今回のノマルでの初個展では、ギャラリーノマルの原点である版画工房とのコラボレーションによって生み出される、シルクスクリーン作品が中心となります。
シルクスクリーンの1つの版は、1つのキャラクター。
様々な場面で刷られたり、刷り重ねられたり、
松井の初の試みとなる版画の技法を使ったインスタレーション展示となります。
ギャラリー2Fでは、これまで制作した映像作品の中より8本を上映。また、3年程前よりほぼ毎日一日一枚描いてSNS上で公開していたドローイング「一枚さん」より2014年分を収めたファイルもご覧いただけます。


作家コメント

絵草紙や飾り文字など、物語と文字や文様が一緒になったものが、どこの国にも、古くからあります。
私は、物語の発生する装置として、インスタレーションを制作してきました。それは、近年の映像作品でも、同様です。人は、なぜ読み取ろうとするのか、その対象物を必要とするのか。また、「伝播」による私たちの文明は、どのような時間軸を持ってなされてきたのか。それらは、あまりにも大きなテーマですが、根底には、「物語」について、そのような関心があります。

今回の展覧会では、色、かたちを断片で描き、印刷技術でもあったシルクスクリーンの特性を、多少イレギュラーな用い方をします。紙に刷られたイメージは、時には図像のようにも見え、時には文字に見えるかもしれません、重なり合う時間が施された多くの紙片を、作為と無作為の間で、画廊空間の中で構成して、作品化し、「一つの物語」を表します。

松井智惠


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「物語はまだまだ終わらない」
島 敦彦 (愛知県美術館 館長)

松井智惠は、30年以上活動を続けてきた息の長い美術家である。京都市立芸術大学在学中から、個展を開き、グループ展(「イエスアート」や「フジヤマゲイシャ」など)にも精力的に参加した。特に1980年代初めから始まった、大がかりなインスタレーション(この言葉は、それ以前の彫刻とも立体とも異なる、空間それ自体の経験の場を表す用語として、当時新鮮な響きを帯びていた)は、注目を集めた。
鉛、漆喰、石膏、丸太、レンガ、ガラス、パラフィン、鏡、綿布、糸など多様な素材が、特定の物語に収斂することなく加工され、独特の間合いで設置されるインスタレーションには、「森の日−地下」(1986年)、「あの一面の森に箱を置く」(1987, 88年)、「その水は元の位置に戻る」(1988年)、「水路−意中の速度」(1989年)といった題名が付けられた。ある意味で、近年の映像作品につながる要素も感じられるが、来場者は重厚さと軽やかさの共存する会場をさまよう旅人、物語の登場人物のような気持ちになったものだ。しかし映像と異なるのは、展示作業の大変さも含め、文字通り力技の仕事であるということが分かってしまうことだった。
初期のインスタレーションに触れたのはほかでもない。版画工房ノマルエディションとの協同作業による、ギャラリーノマルでの初個展「a story – とんがり山」の会場で、その中心に大量の石膏を使った「とんがり山」が出現していたからだ。艶消しの白と無垢の肌合いが持ち味の石膏という材料は、松井のインスタレーションで必ず用いられたものだが、かつてのように会場構成の一部に組み込まれるのではなく、今回は壁からまるで漫画の吹き出しのように、ギャラリーの中心部にせり出し、さらにそこからとんがり山がまるでむっくりと立ち上がったかのように見えるのが印象的だった。しかも、石膏の物量はかなりあるにもかかわらず、その存在感が希薄なのが不思議である。まるで逃げ水のように、近づくと消えてしまう、そんな風に見えなくもない。立体的な逃げ水?
とはいえ、壁一面に貼り巡らされたシルクスクリーンの数々は、この石膏の山を無視して見ることはできない。版画と石膏の山は、相互に共鳴し、時に干渉し、見る者の記憶に軽い揺さぶりをかけるのである。
松井がシルクスクリーンに手を染めたのは今回が初めてだが、ノマルエディションのような専門の版画工房との協同作業がなければ、美術家個人ではなかなか実現できない規模の仕事である。松井はドローイングをフィルムに直接描き、工房が作者の意向を確かめながら制作を助ける。会場左側に整然と並ぶ28種類のシルクスクリーンは、その最初の成果で、いわば基本キャラクターの提示だ。少女の肖像や鳥、小動物を思わせる絵もあるが、まだ具体的な形になる以前の原初的な物体の塊を思わせるドローイングも散見する。
これだけでも十分さまざまなイメージを喚起させる。しかし、松井はそれだけでは満足できない。そしてたぶん版画工房でもその気持ちを汲んで、基本キャラクターの変奏や重奏、対比を試みた。インクの色や紙質、紙の大きさも変えながら、実に多様な組み合わせで具体化した。さらに出来上がった多種多様な版画を今度は不規則に壁面に配置し、コントラストの際立つ会場構成へと導いた。
今回のような版画工房との協同作業が実現した背景には、松井が2011年から日々描き続けているおびただしいドローイング「一枚さん」の存在を無視できないだろう。ドローイングは、実は多くの美術家にとって欠かせない日課である。ちょっとした思い付きのスケッチであれ、緻密な描きこみであれ、インクのシミのようなものであれ、作者の精神と身体とが、さまざまに交差、融合、反発しあって生まれるのがドローイングなのである。アスリートに例えれば、日頃の体幹トレーニングに似ているかもしれない。
松井はドローイングを「雑音の部分」と表現したこともある。物理的な制約に縛られるインスタレーションと違い、ドローイングは、いつでもどこでも、主題も材料も自由(マニキュアを使ったこともある)で、失敗を恐れず実践できる作業である。今回はそのドローイングの「雑音の部分」が、シルクスクリーンという技法によってさらに増幅され、しかし版を経由することで過剰にならず、むしろ均質な表面を獲得した点が面白い。
松井は、インスタレーションも映像も、そしておそらく版画も「物語の発生する装置」と位置づけ、制作してきた。人はなぜ作品に何かを読み取ろうとするのか。その答えは、見る人それぞれと言ってしまえばそれまでだが、松井にとって、それは永遠の課題である。