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2015年2月7日 (土) - 3月7日 (土)

中川佳宣 Yoshinobu Nakagawa:原器 - Origin / Figure
  • トーク: 2月7日(土) 18:00 - 無料
    中川佳宣 x 奥村泰彦氏(和歌山県立近代美術館)  ※ 終了致しました

  • オープニングパーティー: 2月7日(土) 19:00 - 無料  ※ 終了致しました

  • 関連イベント:.es (ドットエス) 即興Live “原器 - Origin / Figure”
    2015.3.7 sat 19:00 open / 19:30 start charge ¥1,500. ※ 終了致しました
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中川佳宣、ギャラリーノマルでの8年振りとなる個展は、
自身の根幹を掘り下げ、新しい世界へ向かう


フォルムと行為。中川の仕事の発生点。
立体作品では型どられたある形から出発する。そこに塗る、擦る、削る、叩く、といった行為を加えることにより作品という状態に到達する。
”ある形”それは何か閉じられた器のようにも見え、何かが蓄えられたもののようにも感じる。その原初の形は支持体ではなく行為を受け入れる受動態としてある。そして行為の参照としての平面作品を立体作品とともに今展では併設する。

  ー ギャラリーノマルディレクター 林聡



作家コメント

1983年以来、長年にわたり平面と立体の間を行き来して自分のリアリティに正直に関わって来たつもりでいる。ここで原点に回帰して平面と立体を分けることと、共通して通い合うものについて考えておきたい。

以前、NOMARTのディレクターの林氏との対話の中から「平面と立体を分けること」について質問されたことを今でも鮮明に記憶している。
それ以前から漠然とではあるが平面を作ることと立体(レリーフも含む)を作ることについて考えてはいたが、うまく説明出来るほどまとまってはいなかったのだが、この時は話の流れから漠然としていたことが言葉になって現れた。
「立体や彫刻をイメージした場合、それらはイメージの中で能動的であり日常の簡単な運動(投げる、蒔く、耕す、運ぶ、歩くなど)と結びつき空間の中で立ち上がる。平面はその運動の結果である」と語った。このことはとても重要なことだと今でも思っている。

今回は原点回帰するにあたり、平面でも立体でもあり得る共通のものについて表現出来ればと思う。それはとても触知的なものである。平面であれ、立体物であっても私の作品はとても表面的であり、常に表面に対するアプローチが結果的に平面として作品と呼ばれるものとして現れ、その行為の組み合わせから立体物が立ち上がって来ていることは確かである。

触知的であるとはどういうことなのかと説明すれば、塗る、擦る、削る、叩く、といった純粋(つまらないこと)に絵画を描くということ以外のアプローチでどれだけ豊かな表面(出来事)を見出せるかということである。そうした行為に興味を抱いている。それは抽象表現主義の作家たちが試みたような可能性のバリエーションではなく、美術に携わることのないような人でも日々の暮らしの中で単純に繰り返している行為である。

私のイメージの中で重要な位置を占めている農耕という芸術ととても距離を持っていそうな人の営みがある。だが触知的な感覚で言えば「種を蒔く」という行為を考えても、蒔く以前に蒔くための場所をどのように耕し均すかという下準備があっての行為である。蒔く前のこの行為こそが私にとっての立体的イメージであり今回はシンプルなレリーフとして提示したいものであり、平面のサンプル的なイメージは出来事としての表面である。このことで私自身の表面に対する感覚を追体験してもらえればと思っている。

中川佳宣



「中川佳宣:原器 - Origin/Figure」展によせて
  奥村泰彦 (和歌山県立近代美術館)


1980年代、関西においては様々な主題をそれぞれの手法で表現する作家たちが台頭し、それまでの表現の規範を破るような作品が多く試みられた。今日ではニューウェーブと総称されるそういった作家たちの表現を眺めながら、作家としての中川佳宣も胚胎したものであろう。ニューペインティングは具象か抽象かという二分論を無効化し、インスタレーションという方法によって立体か平面かという区分も厳然としたものと認識されなくなった。一方で絵画の平面性は一層の追求がなされるが、中川はそのような区分を軽々と乗り越え、特異な存在としての作品を生み出している。 初期の作品では、実際の果実や葉からかたどられた造形物が、具象的というよりは余りにも具体的な形として平面上に突如存在しており、作品自体の在り方が衝撃的なものだった。その当時から中川は、作品とその制作を植物や農作業の在り方に重ねていたようだ。
近作でも同じように、作品の上の植物の形象は、描写や再現されることを目的とするモチーフとしてあるのではなく、作品の在り方を植物の在り方に重ねる手法として選ばれているように思われる。根を張り、茎を伸ばし、葉を広げ、やがて開花して実を結ぶ植物と作品が重ねられ、作品もまたそのような成長を遂げる中で生まれてきたものとして現われるのである。同じように、植物の成長を促す農作業が、作品の制作と重ね合わされ、作家は耕し、種を蒔き、刈り取る農夫として立ち現れる。
いずれも見るものの想像の中で起こる出来事だ。しかし作品が成立するのは、具体的に作品として存在する個々の物体においてではなく、見る者の想像力の中でではないのだろうか。中川の作品は、見る者にそのような想像力を起動させる力を持った何ものかである。
今回の展覧会には「原器 Origin / Figure」というタイトルが冠されている。今日の物理学では、世界の計測の基準としては原器の役割は終わっているそうだ。むしろそれは、単位によって世界が計測できるという夢想を仮設するものではないか。
しかしその想像はあやふやなものではなく、思考実験が多くの発見の基礎となったように、この世界の存在を確認する一つの方法なのである。