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2016年4月23日(土) - 5月10日(火)

稲垣元則 Motonori Inagaki
Sequence - Photograph

稲垣元則の視点を巡る、連続した3つの個展 −
“写真 - 映像 - ドローイング”
不可分な行為の繰り返しの先に見る未開の地平


作家活動の開始より四半世紀、つねに変わらぬ姿勢で自己と対峙し、写真や映像、ドローイング等のメディアを用いて作品の制作を続ける稲垣元則 。
そのスタイルは、幾年にも渡り同じ場所へ赴きカメラのシャッターを切る、身体の反復する動作を撮影する、日々同じサイズの紙にドローイングを描き続けるなど、一見単調な繰り返しに見えるその制作行程の中から、物事の抽象性や新たな視点を獲得し、主観を排した独自の世界観を確立。そのイメージは、見る人の意識の中に時間をかけて浸透し、記憶に残る深い印象を与えてきました。

今展では会期をアウトプットの技法に合わせ3回に分けて開催。各技法の特徴を顕在化させながら、稲垣作品の内に通底する“得体の知れない何か”を探り当てる試みとなります。

各会期ごとに稲垣作品を良く知る専門家を
ゲストに迎え、トークを開催。
作品の魅力をより深く知ることの出来るまたとない機会に。

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"稲垣元則:Sequence - Photograph" 2016.4.23 sat - 5.10 tue
・Opening event:4月23日(土) 18:00- 無料
 Talk:稲垣元則 x 永草次郎氏 (帝塚山学院大学 教授)
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"稲垣元則:Sequence - Movie" 2016.5.14 sat - 5.24 tue
・Talk event:5月20日(金) 19:00- 無料
 Talk:稲垣元則 x 鞍田 崇氏 (哲学者)
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"稲垣元則:Sequence - Drawing" 2016.5.28 sat - 6.18 sat
・Opening event:5月28日(土) 18:00- 無料
 Talk:稲垣元則 x 加須屋明子氏 (京都市立芸術大学 教授)
・.es (ドットエス) “曖昧の海”レコ発 & 展覧会関連 Live “Sequence”
 6月18日(土) 19:00 - 料金 ¥2,000.-
 ※ 稲垣元則とのコラボCD「曖昧の海 / Ambiguity Sea」を進呈
 出演:.es [ドットエス: 橋本孝之 (sax) & sara (piano)]


稲垣元則:Sequence - Photograph
見えるもの/見えないもの、そのすべてを写し取る「Photograph」


作家ステートメント / Artist Statement
その視線は誰のものかわからない。
私の視線であると言いたいが、そう言い切ることができない。
それは私の存在のその前に、またはその後にあるかのようだ。
そこに見えるものは誰も知らないものであり、誰もが知っているものなのだ。

稲垣元則 Motonori Inagaki
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稲垣元則の写真について ーイメージへの期待ー
永草次郎

写真を絵画のように見ようとすると、印画紙の質感がそっけなくて、やはり、ペインティングではないと思うが、稲垣元則の写真を見るときは、絵画や素描と同類のものとして見ている。いずれの場合も、さまざまな先入観にもとづくであろうが、稲垣の写真は、写真技術を用いているが、稀有な生成のイメージを追い求める素描家の手が、写真のプロセスに同化している点で、絵画や素描のように感じるのだろう。
3つのジャンルからなる稲垣元則の作品には何が描かれているのだろうか。控えめに浮かぶ像は、自然、日常、その質感と見られるが、見る者は作者と同じ問いかけを体験しているのかも知れない—描く(写す)こととは何なのか、どうあるべきか、それと世界はどう関係しているのか。すなわち、そこでは描くこと自体、制作のプロセス自体が作品のテーマとなっているように感じられる。
描くこと自体への問いは、描き続ける実践というかたちをとる。作品の構想や題材のための手段であるドローイングが、稲垣の場合、メインの作品となる所以である。稲垣の描き出した自然(現象)は、同時に描く行為の自然(本質)を示している。プロセスとしてしかないものの具現化である。 写真においても、稲垣の姿勢は変わらない。光、レンズ、暗室、印画紙、インクジェットなどの機械的プロセスを内省的にたどり、撮影、そして現像することとは何かを問い、写真のメディウムの特性とともにイメージを味わう場を生み出す。言うならば、工学と化学を用いたプロセスにおいて、人間の描く行為=ドローイングとは何かを問うている。20世紀初頭のスタイケンのような写真の絵画主義ではなく、スティーグリッツのようなモダニズム的な写真の純化でもない。ドローイングのような描写のためのプロセスにおける、イメージの生成への期待を追求する稲垣の写真は、イメージ以上にプロセスにおける手の感覚の関与がテーマなのである。タルボットが生み出した写真技術の名前、フォトジェニック・ドローイングは、それとは違う意味で、稲垣の作品に妙に当てはまる。
「デッサンの国、日本!」(ロダンの言葉)にあこがれた近代彫刻の祖ロダンは、多くのドローイングを残し、また、写真の上に素描を行い、彫刻制作に活かしたが、その100年後、キーファーなどによる写真と素描の合成自体が新しいペインティングの時代と符合することなど想像しなかっただろう。しかし、彫刻にドローイングの生成と崩壊の質を与えたロダンならば、機械的な写真に「デッサンの国、日本!」の感覚が加わった創造がまさに日本の作家によって生まれることには大いに合点がいったことであろう。メディウムの横断的な制作行為には、メディウムの変化に対して、変わらない手の感覚が構造化される必要がある。そして、写真表現にドローイング感覚を残すことは、ロダンが彫刻を崩壊させたように、写真本来の正確なイメージと矛盾することがある。
ときには、写真の技術でしか得られない絵画性というものも実現されている。darknessなどに顕著だが、写真の暗いなかにいかに多くの諧調があることか、そこにいかに多くのかたちがあることか、そして、写真の新たな質感が創出されている。
そして、おぼろげであったり、単純であったりするモノクロームの風景の描写には、静けさがある以上に、実は、ノイズやディストーションのかかったサウンドがメタリックに響く、そんな隠れたアヴァンギャルディズムがあるように見えることもその魅力だ。
視覚体験と制作行為がともに生成の状態で一致しているとき、そこに現実の時空と制作の時空が合一し、静止してはいるとは言え、鑑賞のもうひとつの時間を生み出す。稲垣元則の写真作品は、かたちや動きが生まれいづる瞬間が静止して現れることによって、見る者の視覚に柔らかに浸透する。写真のプロセスに現像という生成のプロセスがあるが、それを手の感覚とパラレルなものとしている。メディウムの特性も含めたプロセスへの強い意識のなかで、人が何かの痕跡を残そうとする行為とその不完全性のはざまが現象化される。
稲垣が生み出すイメージに私たちが引き寄せられるのは、そこに問いに対する期待があるからだ。イメージへの期待とでも呼ぶものである。同時にイメージの生成時への郷愁でもある。


永草次郎 Jiro Nagakusa (帝塚山学院大学教授)
名古屋大学大学院博士前期課程修了(美学美術史専門)。1986年静岡県立美術館学芸員。1993年帝塚山学院大学専任講師、2003年より現職。1998-99年メトロポリタン美術館客員研究員。
セザンヌ、ロダン、ミニマル・アートなどに関する論文・共著のほか、美術館学芸員として〈ドナルド・ジャッド〉展、批評として『美術手帖』関西展評(2001年)、インディペンデント・キュレーターとして〈泉北アートプロジェクト〉;〈BOOK ART 2013-14 Japan-Korea〉などの活動がある。
2015年に実験的ギャラリーNs ART PROJECT(エヌズ・アート・プロジェクト)を開設。