過去の展覧会

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2003.2.8 sat - 2.28 sat

Nomart Projects #02_02
中比良真子 Masako Nakahira
WATERING
  • オープニング・パーティー 2003.2.8 (みやじけいこ展と合同開催) sat sat 17:00 -



前回、2001年の開催より2年振りとなる「Nomart Projects」の第2弾。そのスタートとなる、中比良真子のCUBEでの個展 (みやじけいこ展と同時開催)。
昨年より制作を始めた「水」と「身体」をモチーフとしたシリーズの新作の油画を発表。清涼感のある色彩が爽やかな印象を与える反面、歪められた身体のイメージが視覚や存在の不確かさを露わにする、インパクトのある展示となりました。

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ノマルエディションの若手作家の発掘・育成プログラムとして2001年にスタートした「NomartProjects」。その第2弾として、今回は三脇康生氏(美術評論家, 精神科医)をキュレーターに迎え、ノマルエディション/プロジェクト・スペースのCUBEとLOFTの2会場において春に6人、夏に4人、計10人の若手作家の個展を開催。


前回#1ではグループ展+個展という形態でしたが、今回のプログラムは10作家、すべて個展での展覧会となりました。

各個展の狙いは、ある程度表現を持続させてきた若手作家が、いかに表現を見直し、展開させるのか、それを考察する瞬間につき合い、見守る─ノマルエディションが工房 (制作)・ギャラリー (発表)の場を与え、批評家としての三脇氏の用意する言葉を参照してもらう─ことにありました。

それぞれの作家のステートメントも伴いつつ、個展の度に企画者である三脇氏が文章を執筆し、発表されました。


[Nomart Projects#2 参加作家]
[前半]
中比良真子 Masako Nakahira / みやじけいこ Keiko Miyaji
村井美々 Mimi Murai / 馬場晋作 Shinsaku Baba
三宅砂織 Saori Miyake / 谷本良子 Ryoko Tanimoto
[後半]
梅木香里 Kaori Umeki / 児玉太一 Taichi Kodama
衣川泰典 Yasunori Kinukawa / 中西信洋 Nobuhiro Nakanishi



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作家コメント

今回の展覧会では、昨年から描き続けて来た『WATERING』シリーズを展示する予定です。
『WATERING』シリーズは、人が水によって立体から平面へグロテスクに形を変えていくこと、そして水が人によってその見えない存在を明らかにすることをテーマとして生まれた作品です。
シリーズを通して私自身の考え方や描き方も少しづつ変わり、今いちばん作品を通して疑問に思うことは、『私は人でありたいのか、それとも水になりたいのか?』という事です。前者は自我や孤立を表し、後者は依存や共同体を表すような気がします。もちろん、どちらが良いと決め付けられるような問題ではありません。ただ私が惹かれてやまないのは、自分も、そしてきっと周りのたくさんの人達も、その間でゆらめき続けているのだという事実そのものなのです。
見る人にも、その人なりの答えを見つけてもらえれば、と思います。

中比良真子 Masako Nakahira


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ー 三脇康生より中比良真子へ

「ぶれ」はあなたにとっていかに存在するのか、むしろしないのか?

中比良は絵が描かれることになる平面とは何かを問い続けてきたと言ってよい。水も雪もアスファルトも、壁も鏡も、あるいはただのキャンパスの余白も、絵の中では、それなりの面積とともに平面を形作る。この際の、「水も雪もアスファルトも、壁も鏡も、あるいはただのキャンパスの余白も」の「も」に中比良は面白みを感じていたようだ。なんでもある意味では平面を形作る。ここから、その平面を措定する水も雪も有無を言わさぬ存在感を持つことになる。しかしそれがゆえに、その存在感は舞台を見る我々に対する舞台のように透明化も要求する。言わば、おねだり絵画になる。あとは舞台の登場人物に目を凝らすことが要求されていた訳である。しかし中比良は、水を舞台設定に使った時、舞台の中で起きている光の屈折によって出来る、舞台の登場人物の姿の融解にも惹かれ続けていた。そういう意味では鏡にも惹かれていた節はありそうだ。水の場合、設定された舞台とともに登場人物は現れ、しかもその現れは水という舞台の物質的な特徴によって、水「も」他の舞台と同じではなく、水「こそ」独特のイメージのあり方を作り出す。水とともに、水と同時に、イメージが存在すること。イメージの前に水が存在しているのではないこと。この局面を明らかにすること。これこそがおねだり絵画からの離脱の方法の第一歩である。さらなる難点は、水中や水面の写真を用いて描き直すときの、「ぶれたイメージのぶれ」の「処理」にあった。それを写真という舞台にお願いして処理することはできない。どこまでが水でどこまでが散乱したイメージか、中比良が決定しなければならないのである。この決定にはフィクション性がつきまとう。これは舞台と同時に登場人物が発生する、その同時性にだけに気を惹かれてしまうと、お座なりになってしまう部分だろう。舞台とともに、同時に登場人物が生じるが、本当にそこに溶け込んでいることだけが重要なら、写真を描き直す必要もない。だが、写真は描くきっかけとして撮られている程度のものなのだから、写真の展開が望めるものでもない。結局、この決定こそが、描き直す中比良のモチベーションとなるべきだろう。イメージは水とともにそんざいする、しかしながら、そのことを指摘するだけで作品が成立するのではない。成立したとしても面白くない。写真の描き直しのプロセスで、「ぶれ」に対する、作家の孤独な独善的な決定がかならず生じる。ここにこそ写真を描き直すことの最大の魅力が存在しているのである。

三脇康生 Yasuo Miwaki


今展キュレーター: 三脇康生 Yasuo Miwaki

1963年生
京都大学文学部美学美術史専攻、卒
京都大学医学部、卒
フランス政府給費留学生としてパリ第一大学科学哲学科博士課程留学後、京都大学大学院医学研究科博士課程、修了

[専攻]
美術批評、臨床精神医学、精神医学の倫理・歴史・哲学
[著作]
「精神の管理社会をどう超えるか?」(松藾社)
「ア−ト×セラピー潮流」(フィルムアート社)
「ナルシシスムを静かに破壊せよ」(ノマルエデション) 他