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2006.4.8 sat - 5.2 sat

大島成己 Naruki Oshima
Reflections
  • オープニング・パーティー 2006.4.8 sat 17:00 -



2002年から当ギャラリーにおいて継続的に発表している“Reflections”シリーズの最新作が発表されました。

私たちが日常の中で認識する物質に対する意味性をイメージの中から消去し、その過程で立ち現れる要素(光、色彩、イメージの触覚感)を増幅させて提示する彼の作品は、海外でも高い評価を受けており、イタリア、オランダでの大規模な国際展にも招聘されています。

今回の展覧会では被写体のもつ色彩性により焦点を当てた作品を制作。これまでのシリーズにおける文脈を継承しながら、色彩という1つのエレメントに焦点を当てた今回はミュージアムサイズの作品も制作され、作品と向かい合う鑑賞者に強い印象を与えることとなりました。



作家コメント

"Reflections" —像としての色彩についてー

 "Reflections"シリーズを開始して4年が経とうとしているが、今回の個展においては被写体の意味性が消失していく最中に現出する色彩性をより自覚的に捕らえようとしている。ガラスに反射する風景イメージとガラス越しの室内イメージとが、交錯し揺れ動くようなレイヤー的空間へと解釈されるとき、写真に映る各物体の色は属性としてではなく、物体から浮遊するような映像的な色彩として現れてくるのだ。被写体における、何層も重なるガラス板の青緑色、木製机の茶色、壁面の白色、空の青色、樹木の緑色などなどそれらは物体の固有色であることを止め、色=反射光の層で構成される写真空間を形成していく。
 様々な論議があると思われるが、これはドナルド・ジャッドの一部の作品における色彩性に近いのかもしれない。私が考えるに、ジャッドの試みは西欧伝統的な造形を排除することにより、それまで隠蔽されてきた物質の色彩自体を解放することにあった。例えば、町でよく見かける裸婦のブロンズ像においては西洋的な造形を完遂するために素材となる物質が隠蔽され、誰もブロンズ自体の色を問題にしないだろう。ジャッドはその造形的な操作を排除し、独自のマナーにおいて物質空間を整えることにより、素材としての物質を露わにし、観念的な属性に留められていた色彩を解放したのではないだろうか。そこでの色彩は正に空間に噴霧されるような光の層へと変換されているのだ。
 私はジャッドの色彩性に倣いながら写真空間を問い直したい。被写体の意味、文脈に隷属してしまう写真を色彩=光の関係へと変換し、写真空間の新しい可能性を見い出したいのだ。日常的にある写真の多くは(新聞写真、証明写真、ポルノ写真、科学写真、紀行写真などなど)常に何かの機能を背負わされ、或る全体を補完するための隷属的な役割を強いられている。そこにおいての色彩は被写体の説明的な固有の色として在るのみで、それらは単なるイラストレーションに過ぎないだろう。この状況に対して、私の仕事は、造形的なマナーに依らない方法で写真を整理し、隷属的な位置から解放していくこととなる。そして、そこで現出する写真空間こそが、我々が日常的に捕られ損ねている、世界は光に満ちているという単純な有り様を示すに至ることとなるのだ。

大島成己 Naruki Oshima