過去の展覧会

<

2006.11.11 sat - 12.9 sat

中川佳宣 Yoshinobu Nakagawa
光の壺 light pot
  • オープニング・パーティー 2006.11.11 sat 17:00 -



前回2003年の展覧会では、台座と彫刻の関係性を作家の視点により考察した、新たな中川の彫刻像というべきものを表したものとなりました。その後、紙の上に染型によって、ある一定のイメージを重層させるタブローや、ブロンズを素材としたキャスト(鋳造)による作品などを発表してきました。

今回の展覧会では、型を使った再生紙による立体作品“light pot"と、そのプラン・ドローイングなどによって、loftの空間全体を使うインスタレーション。またcubeでは長年継続的に制作を続けてきている大地をイメージした“seed on the table"、水面をイメージした“sample"による両平面作品の新作を発表。それぞれの空間で見る者の視点の所在を問い掛けました。

これまでの制作過程を踏まえた上で、改めてペーパーワークに立ち返った内容は、彼のこれまで辿ってきた思考の集大成ともいえる展覧会となりました。



作家コメント

ノートより

 この夏の暑さには参った。厄年をバカにしていたのがいけなかったのだ。今までに経験したことのないほどの夏バテに「降参!」と音を上げた昼下がり、日はまだ高い。とにかく頭をあまり使わなくていい仕事だけを探し、それもあまり汗をかかないですむような仕事だけをする。
 プレハブのスタジオは外よりも室内の方がずっと暑い。もちろんクーラーなんてない。例えあったとしても真夏の野原を冷やすようなものだ。大ゴミで拾ってきた天井設置式の扇風機が頼りなく頭を回し続けている。が、それでも無いよりもましだし、健気な仕事ぶりに大変救われた。

 このまま年を追うごとにますます暑くなるのだろうか?「もし、日本が熱帯になったなら」そんなことを考えだしたら、スタジオになんて居てられない。ヒグラシの鳴き声がどこからともなく聞こえはじめたら自転車に乗って夕涼みに出かける。場所は近くの八幡神社の拝殿が好きだ。その縁側に胡座をかいて、古い町並みの向こうに湖が大きく広がるのを眺める。対岸に沖島とその背景として近江八幡だろうか?風景の中に大きく口を開けたような湖面の姿はいつまで眺めていても飽きることがない。蚊に喰われながらも気持ちはもっと高いところから風景を俯瞰して見ている気になっている。ちょうど家の裏に聳える武奈ヶ岳の頂上より眺めた風景といったところだろう。ここからの眺めは湖西から湖北、湖東、東近江と一つの流れの中で目で追うことが出来る。地図で見慣れた琵琶湖のかたちを何となく把握することも出来る。
 海であればそんなことはないだろう。日本海のその先に朝鮮半島やシベリアを想像することはできても、目である程度まで追って確認することなど出来ない。

 この夏、イメージとしては長きに渡り引きずってきているものの一つで " seed on the table " というシリーズがあるのだが、その制作の中で新たに気づかされたことがある。トランプのカードほどのドローイングである。絵の具が塗られた過去を持つキャンバスの表面に蝋燭の煤で細かな点を幾つも付け、キャンバスにこびり付いた絵の具の存在も意味として捉えられないものにしたいと始めたもので、かれこれ15年ほどになる。
 その一連の仕事の中で、普段なにげなく眺めてきている湖との境界を目で追うということと、点描された小さな画面を見入るときの心持ちに共通したところを感じている。眼差しの進め方なのだろう。こちら側から眺めるときの「彼岸」の存在をどこかで大きく意識しはじめているそのことに気づかされた。
 また、そうした意識は無題ではあるが " sample "と仮題をつけたここ5年ほど前から始めたシリーズに受け継がれている。実験器具のシャーレにキャンバスを浮かべたものである。平面であるが天も地なく何かを俯瞰で見ているように思って頂ければよい。このもの自体に穴をあけ浮かべてみたら?これが今回の試みである。

 あまりに暑い日は、幾度となく草津にある水生植物園のほど近くにある蓮が群生する湖畔へ出かけた。水面より1メートル近くも伸びた蓮の葉や茎越しに風景を眺めていると普段の生活では味わえないスケールを感じることが出来る。

 結婚したばかりの頃、小さな車に彼女を乗せて徳島県を吉野川に沿って西に走ったことがある。その時の季節も確か夏だった。徳島はサツマイモの「鳴門金時」が有名だが、レンコンの生産でも有名だということをはじめて知った。
 車を運転しながら突然現れるレンコンの生い茂る水田に出くわして唖然となったことを記憶している。どうしてそのような気持ちになったのかその時はそんなことを考える余裕もなく目の前に広がるレンコンの水田に目を奪われていただけであった。

 湖畔に群生する蓮を眺めながら、普段の生活であまり感じることのない視線の問題、スケールの問題と対峙したとき、徳島での記憶がよみがえった。あの時の心の中に起こったことを考えれば、一瞬にして5、6歳の子どもの背丈に戻ってしまったような、ちょっと不思議な感覚である。言い換えれば絵画におけるデペイズマンという場の設定に現実の世界で出会ってしまったような、そんな質を持った記憶である。このような感覚的な経験の中で育まれたであろう視線の問題は、やがて空間に作品を展示する際の視点となって現れる。そのことは制作においてとても重要なことだと思っている。" light pot " はそのことをシンプルに表現できるツールである。新作として制作するのは久しぶりであり、おそらくこれで最後だと思う。

 群生地に何度か足を運ぶうちに顔見知りになった県の職員の人に群生地を手漕ぎの舟で少しばかり案内してもらった。群生地の水質調査とゴミの回収のためなのだそうだ。ゆっくりと蓮の茎を左右に押し分け進む舟と水に照り返す強い日差し、すべてが一つの湖面の上にある。人の姿に驚いた鳥は大きな鳴き声をあげて飛び去った。またしても自分がアマゾンかどこかの大河をゆく探検家としてのイメージの中に埋没してしまっていた。現実は危ぶさに包まれている。それに比べたら絵画ほど、確かさを求めて築き上げられたものはないように思えて仕方がない。平面とは結果である。確かに昨日自分が存在したという事実をそこに孕んでいる。すべての行為の受け手として、起きた出来事を引き受けて存在している。" the surface of the water " " the garden of mirrors " " creek " といった一連の平面作品に共通したものがこのことである。どこまで「何でもないもの」を築けるのか?それを見ることとなる他者は何を引き受けてゆくのか、楽しみでならない。

中川佳宣 Yoshinobu Nakagawa