過去の展覧会

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2007.2.10 sat - 3.10 sat

大西伸明 Nobuaki Onishi
Desktop, Dress, Gray
  • オープニング・パーティー 2007.2.10 sat 17:00 -



国際芸術センター青森と当画廊の2つの会場での発表として企画された「Desktop,Dress,Gray 」展を開催。
今回の展覧会では、今まで展開してきた作品を3つの切り口で展開。一つは今まで制作してきたシリーズ『Infinity Gray』の展示。もう一つは、機械的に反復されつつ触覚性・物質性が増していく感覚を、自然物を用いて表現したシリーズ『Dress』。そして新たな試みとして、日用品などを薄い表面として構成した『Desktop』シリーズ、以上の新作が発表されました。

日常の中に存在するモノ、あるいは動植物を型取り、樹脂によって再現される大西の作品は、着彩の技量によって、トレースされる対象物と見紛う作品として立ち現われます。ここで大西作品たり得る特性は、そのテクニックや本モノ・偽モノといった差異からの読み取りよりも、表層のトレースによる立体から平面(?)への感覚的な移行が私たちの認識に与える緩やかな揺さぶりの中にこそ見い出されるのではないでしょうか。
主観的概念を取り払ってヒト・モノ・コトの本質をいかに捕らえることが出来るか?つねに独自の鋭い視点で日常の風景を観察している大西の世界観がインスタレーションとして展覧会場に立ち現れました。

これまでは卓上サイズの作品を多く展開してきましたが、今回のプロジェクトを契機として、展示空間全体を活かした大規模な作品を制作。1点に集中される視覚・触覚的な感覚が、空間全体を通して感じ取れるまでに拡張された展示となりました。



作家コメント

薄い生き霊

ある日親戚から電話があった。僕の母親と祖母が喧嘩をしているというのだ。80前の祖母と60前の母が、いい年こいて喧嘩である。しかし詳しく親戚から話を聞いてみると、憂鬱な身内のいざこざとは反して、その話は非常に興味深い内容であった。祖母が買い物を終え自宅へ帰った時、隣に住む夫婦が声を掛けてきたそうだ。夫婦は「娘さん(母)が今日は来られているのですね」と祖母に伝えたらしいのだが、母が自宅へ来るとは思っていないし、聞いてもいない祖母は自宅を探してみたそうだが誰もいない。隣の夫婦の勘違いかと思ったが、祖母の自宅は田舎の小さな町であり、隣の夫婦も小さな頃から母親をよく知っており、間違えるはずもない。念のために祖母は母の自宅に電話をしてみたらすぐに母が電話に出たそうだ。事情を説明したが、母は先ほどまで歯の治療に病院へ出ており、田舎に行く用事もないし、変な言いがかりをつけないで欲しいと母は怒ったそうである。祖母は祖母でお隣さんを疑うことも出ず、母親の言うことも嘘とは思えない。混乱した祖母はとにかく自分の聞いた話を繰り返し喋ったため、とうとう2人の話は喧嘩に発展してしまった、ということである。
コトの発端は一般的な言い方で言うと「生き霊」というのであろうか。その話を聞いたとき、僕は特に不思議ではなかった。それが霊的な話であるとは思えなかったが、科学的に否定できる話ではないし、そんなこともあるかな程度に軽く考えていた。それよりも母という人間が2つ同じ時間に存在しているという違和感が面白かったし、2人存在しているということで、彼女たちが薄くて軽い存在のように感じられた。
何ヶ月か経って、お墓参りの際に祖母の家を訪ねた。例の「生き霊」の話を、祖母に「大変だったね」と話しかけてみたところ、祖母から予想外の話が出てきた。祖母は母に電話をした後、隣の夫婦にもう一度確認したそうである。お隣さんが祖母に言った内容は「娘さんに間違いはないだろう、彼女は○○な服装をして、祖母の自宅へ入っていった。それに、我々は別々の時間に彼女を見ている、もちろん同じ服装をしていた」ということである。母は2度目撃されているのだ。とくにうちの家系は幽体離脱するだとかそのたぐいの話などないのだが、母は生き霊として2度も現れているのである。2度現れたことは僕にとって不思議でも恐怖でもないのだが、それよりも、その時歯の治療をしている母の存在と、夫婦が目撃した母(2人の?)の存在を考えると、最も身近な存在であり最も理解できない母親という存在が、何故か少し身近に感じられるような気がしたのだ。母親の思想や内面を理解したり、喋ったり暮らしたりするよりも、薄っぺらく透けてそうな彼女達の間に存在する時間や空間、彼女のいたその場所の空気を考えたり感じる方が、母親の本質に少し近づけるような気がしたのである。彼女達のように薄く何度も繰り返されるような存在として我々やあらゆるモノ・コトを平等に極薄として捉えてみると、もしかしたら僕は様々な本質に少しだけ近づけるかもしれないと思った。

テトラポッド

夏の暑い日のことである。フィッシングダイアリーの制作のため淡路島に行くことになった。淡路島の南に位置するある町で、台風前後にヒラスズキという魚が釣れるという情報を得ていたので、台風は来ていないがヒラスズキという響きだけで(この魚は警戒心が強く、釣るのが難しいので仲間内では憧れの魚なのである)とにかく行こうということになり、友人と釣りをしに行くことになった。
到着して非常に驚いたのは、とにかく大きなテトラポッドが漁港の外海側に並んでいることである。大きいといっても放射状に伸びた4本脚の一つが自分よりも遙かに大きなサイズなのである。普段釣りをしているときは、そのテトラの上に座ったりしながら釣りをしたり、たまに眠くなると寝転がったりして、僕にとってコンクリートの中では最も馴染みのある存在なのだが、淡路島のそれは巨大すぎてテトラとテトラを飛んで渡るなんてとんでもないことであり、一つのテトラポッドを歩くことさえ困難であった。それらが積み重なっている為に水面からの高さも何メートルにも達し、落ちると多分上がって来られないし、大怪我をすることが簡単に想像できるため、とても馴染みのあるあのテトラと同一のモノと僕には思えなかった。恐かったのでテトラを飛び越えて釣りをすることは諦めて、内側の漁港で釣りをすることになったのだが、テトラポッドから少し離れてそれらを眺めているといつものテトラポッドとは違う雰囲気を感じた。なにやら生命感というか、触覚的に強く揺さぶられる感覚なのだ。最初は大きいからだと思っていたのだが、しばらく眺めながら考えていると、テトラポッドの反復によるものだということがわかってきた。テトラポッドの多くは鋼製の型枠にコンクリートを流し込んで複数作られるモノであるが、テトラポッド自体も放射状に繰り返される一つの構造を持っている。その繰り返された構造を持つモノがさらに何度も繰り返され並べられるという機械的な感覚と、繰り返されることで生き物を眺めているような触覚性を獲得しているという相反することが一つの出来事の中に収まっているということを、この風景から感じ取ることが出来て興奮した。僕にはその風景がとても色気のある風景に見えたのである。
その後漁港で友人の操るルアー(疑似餌)に50センチは軽く超えているであろう黒光りする魚が追いかけてきたが(残念ながらこの魚は釣れなかった)、その躍動する生命感とテトラッポッド達はまた違った生命感を帯びていたのを突き刺さる日差し以上の印象として強く覚えている。

大西伸明 Nobuaki Onishi