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2007.5.12 sat - 6.9 sat

片山雅史 Masahito Katayama
皮膜 - 千の光 Membrane - Lights of One Thousand
  • ギャラリー・トーク 2007.5.12 sat 17:00 -
    トーク: 片山雅史 x 中井康之 (国立国際美術館), 司会:林 聡

  • オープニング・パーティー 2007.5.12 sat 18:00 -


福岡に在住する片山雅史の関西では7年振り、弊画廊では初となる個展を開催。
これまで関西ではまとまった発表がされていない、黄色や紫の鮮やかな色彩をアクリル絵具を中心にもちいて表現したシリーズ作品「皮膜」の集大成といえる1,000点組及び100点組を大規模なインスタレーションとして展示。また新たに「皮膜」のイメージによる版画作品を制作・出版いたしました。シリーズの集大成として片山の意気込みが伝わる、スケールの大きな展覧会となりました。



作家コメント

絵画作品「皮膜」について

1. はじめに−皮膜とは
造形芸術作品は、見ることを前提として語られてきた。近年CGによる仮想世界や、加速度的に進化・発展する映像情報など、視覚を中心とした表現は多様化しつつある。これらの視覚表現は人の生活や心の内にまでも深く影響を与えている。一方でこれらに頼りすぎることによる視覚以外の知覚の鈍化や見る側の想像力の低下を招いていることも否定できない。絵画作品シリーズ「皮膜」は、視覚と視覚以外の知覚の関係、また、目に映る形や色とそれらが認識されることとの関係の面白さに興味を持って創られた作品である。「皮膜」は、絵画の内側の世界(描かれたイメージ)と外側の世界(鑑賞者が作り上げるイメージ)との境界としてあるとともに、イメージと物質、知覚と感覚、ミクロとマクロ、そして人の心の内と外とを繋ぐ境目でもある。そしてさらに「皮膜」は、生物の皮膚や網膜といった連想をも喚起し、絵画の物質としての表面をも意識させる。シリーズ「皮膜」は、これらのあらゆるものの内と外を往還することを促すべく制作された絵画の形式を持った作品であり、鑑賞者の記憶を引き出す装置である。

2. 絵画作品「日記」について −光としての絵画−
「皮膜」の作品に触れる前に、その数年間に始められたシリーズ「日記」について述べたい。1995年頃、当時画素数の少なかったデジタルカメラにより無作為に撮影された画像を見たときに、その映し出された光のイメージに大変興味を覚えた。その表面は整理された光の情報となり、映像は視覚によって認識された実際の風景より一層客観的な現実性を帯びているように感じられた。それは、古くはレンブラント、フェルメール、そして印象派が試みようとしたことにもつながる。フェルメールは周知のとおりカメラオブスキュラに映し出された光の記録を写し取ったとされる。また、印象派の画家たちは光の粒子を身体性が伴う筆のストロークに置き換えつつ、現代の視覚学的考察、色彩学的考察を行っていたといえる。画素数が少なく粒子が粗いことにより、その画像は光の集合であるということを意識させる。また、輪郭は曖昧になり画像上で地と図のヒエラルキー、遠近法的秩序を壊してしまうわけである。視覚を通じて外界を認識するプロセスでおこる諸々の脳による操作を排除し、網膜に映った状態に戻すかのようである。
それらの画素数の荒いデジタル映像を油性絵の具、アクリル絵の具により写し取ったのがシリーズ「日記」である。ここでは特に触れないが、以前までのシリーズ「風の系譜」のように、近代以降の絵画表現に見られる身体性の投影としてのこだわりはなく、むしろ表面に筆跡や物質性を残さないよう心がけて描かれている。画面の中にあらゆる意味でのヒエラルキーを持ち込まない。モチーフは題名どおり日々、出会った人、物、友人、など日常のスナップが描かれている。

3. 絵画作品「皮膜シリーズ」について
これらの作品のコンセプトは、日記シリーズで試みられたことの延長線上にある。描かれたイメージはすべて、カメラによって撮影された映像である。筆者の主観が入り込んだ風景の再現ではなく、機械的装置により映し出された画像であることが必須である。それらを黄色とその補色である紫とのシルエット映像に置き換える。黄色は花粉の色でもあり、また光の色としてもある。シルエットはすぐにはイメージを結ばないよう焦点をずらし、簡略化され、直ちにその映像が何であるか解りにくくしてある。ゆえに絵画上に遠近法的ヒエラルキーを構築しない。黄色の物質感を持った顔料とカオリン、そして雲母粉という粒子の粗い鉱物質の顔料を使用することにより、絵画の表面上を目が泳ぐようにしてある。
一見は黄色と紫の物質感の強い抽象絵画のように映る。そしてしばらくしているとその顔料の塊がシルエットを形成しており、風景や花芯であることに気付かされる。絵画の中に像を見出すのである。これは絵画そのものにあるのではなく、見る側の記憶、経験による。すぐにイメージが浮かび上がらないほうが良い。絵画の表面と、記憶により手繰り寄せられたイメージとのせめぎあいで戯れる時間が必要である。ゆえに題名も具体的イメージを想起させないよう、作品は皆「皮膜」とつけられている。

—私は純粋視覚の経験に深い関心を持って平面作品を制作している。その結果目に映った色や形が認知されイリュージョンを生成することや、残像を伴い可変的に別のイメージを引き起こすことなど。私の言う純粋視覚の経験とは知覚としての視覚のことであり、いわゆるフォーマリズム理論のことではない。
またそれらの延長として、絵画の物としての表面が個人的記憶を通して視覚以外の知覚、たとえば触覚や味覚を呼び起こし、多様的なイメージを創りあげることにも大変関心を抱いている。「皮膜」と題されたシリーズ作品は黄色を主張色とし、自然界にあるもの(たとえば花畑や睡蓮の庭であったり、向日葵の花芯であったり)の映像をモチーフに描かれている。光を伴うそれらのイメージは、映像性を残しつつもその輪郭は簡略化され、具体的なもとのイメージが認知されるか否かのところでとどめられている。そしてまた、描かれた表面はその光を内包するかのように、層の厚い半透明の絵の具で被われている。−
(片山雅史「皮膜」カタログより引用)

—私の絵に描かれているイメージはきわめてシンプルである。それは具体的に語り過ぎないほど良い。またその像は、自然世界になくてはならない。基本的には、花芯や風景がシルエットとして描かれているだけである。そしてその表面は描かれている視覚的イメージとは別に記憶の中にある手触り(触覚)や味(味覚)、匂い(嗅覚)という視覚以外の知覚に積極的に働きかけるよう多重の透層で被われている。

物質としての表面が記憶の奥底に眠る知覚を喚び覚ます。
そこには概念で語られることも技術も必要としない。

私は質感に対して大変興味を抱いている。いや、興味という以上にある種の強迫観念かもしれない。質感—それは自然の皮膚であり、変容する光とともにある。
その光のありようとともにミクロとマクロを往復し続けること。

私をとりまく視覚をとおして得られる光の情報—眼に見えているかたちや色—それらはどこまでが現実であり、どこまでが私自身の脳が創り上げた幻影なのか−
(皮膜2004 − 知覚の森へ片山雅史展カタログより引用)

4. 皮膜2004 − 千の光
直径30.0cm×厚さ3.0cmの円形板  140枚
直径22.5cm×厚さ3.0cmの円形版  220枚
直径15.0cm×厚さ3.0cmの円形版  640枚
計1000枚 の作品からなる。
京都三十三間堂の千手観音からインスピレーションを受けて制作した作品である。それぞれの円盤に描かれたイメージは、他の作品同様向日葵の花芯と池の水面であるが、円盤が小さいため、像全体ではなく部分的に描かれており、今まで以上にもとの映像はわかりづらい。むしろそれらは顕微鏡を覗いた時に見えるミクロの世界、生物の細胞やアメーバーを想起させる。また、一面に重なるサイズの違う円板は、増殖する細胞の様でもあり、水の中に沸き起こる泡の様でもある。この作品は、紫と黄色のほかに、黄緑、薄紫(ピンク)白(銀)等の色彩が使われた。
一つ一つのイメージより、視野を覆いつくすかのような1000の圧倒的な数と色彩により、視覚を超えた臨場感を目的として制作された。

—京都の東山に蓮華王院という名の天台宗の寺院があり、本堂の内陣の柱間が三十三あるため三十三間堂と呼ばれている。この長大な堂内には圧倒的なまでに埋め尽くすように1001体の千手観音像がある。

-静寂とともに鈍く輝く金色の千の光、無限に拡張する精神とともに共有するその深淵なるコスモロジー、語りかけられる世界に繋がる光、見ることを超えた知覚体験-

この場所には、過去に何度か訪れている。そして「皮膜」の連作を描き始めた数年前、この前で「目の前を覆いつくすような1000枚の『皮膜』で組み作品を創る。」と心の中に強い思いが湧いたのをはっきりと記憶している。特に宗教的な意味合いはない。1000という圧倒的な数の持つ力、内包する光、皮膜の描こうとしている見ることを通して繋がる世界に重なったのであるー
(皮膜2004 − 知覚の森へ片山雅史展カタログより引用)

5. おわりに
絵を描くことをとおして様々なことに関心が広がる。かたちや色、それは光なくしては認識できない。そしてそれを見るということ。網膜に映ること、そして脳における視覚情報処理、それを認識すること。記憶すること。視覚と他の知覚の連動性。視覚生理学から神経科学、そして自分自身がここにいるということ。すべては繋がっている。
見ることをとおして、そして作品『皮膜』をとおして、目の前に広がる絵の世界を超えた何かを体験してもらえればと願っている。

片山雅史 Masahito Katayama