過去の展覧会

<

2007.11.17 sat - 12.15 sat

中川佳宣 Yoshinobu Nakagawa
roots - 光の根
  • オープニング・パーティー 2007.11.17 sat 17:00 -



中川佳宣は1987年の初個展から現在まで、一貫して植物、大地、水面といった自然界の有機的な姿、形をモティーフにした作品を制作。能動と受動、光と影、生産と搾取一自然界の根源的な様は、実は私達を取り巻く世界の本質である事を立体、平面、あるいはインスタレーションで提示してきました。

これまでの集大成ともいえる昨年の展覧会から僅か1年という短スパンでの開催となる今展のタイトルである“roots”は、「根」という意味とともに、彫刻の骨格(根源)を露わにする中川の決意の表れともなっています。これまで培われてきた作家の視点、思考の軌跡が、新たな試みによって昇華される展覧会と位置づけ、中川が数年来温めてきた「根」をテーマとした新作を発表。ロフトとキューブの各スペースで、体感的な大作が展開されました。



作家コメント

ノートより:「roots - 光の根」に向けて

植物は性格が正反対の二つの部分に分かれている。光を求めてやまない茎と、闇がほしい根とである。茎は太陽の光をあびるために、自力で立ちあがれないときには、巻きひげ、かすがい、かぎ、登攀根といった、登るためのあらゆる道具の助けをかりる。しゃにむにとなりの茎に身を寄せかけて、らせんにからんでゆく。必要とあれば、相手を腕のなかでしめあげてしまう。根のほうは暗闇でしか生きない。どうしても地中の闇が必要だ。そこに達するためには何ものにもたじろがない。腐葉土がなければ、粘土に凝灰岩のなかにでももぐりこむ。傷を負う危険をおかして石のあいだに忍び入り、岩のさけ目にすべりこむ。第一に必要なことは太陽を見ないことだ。極度に対照的な性格はみなそうだが、根と茎の反対の性向もごく幼いときからはっきり現れる。(日高敏隆 / 林瑞枝 訳・平凡社)

 この文章はジャン-アンリ・ファーブルが書いた『植物記』の中で「根」を話題とする項目の冒頭のものである。
 前回のノマル・プロジェクトスペースでの個展「光の壷」から1年の期間を経て、新たな作品の展開を試みる。かれこれ5年ほどのあいだ、自分の中で暖め続けてきた立体のイメージは、空間に吊るされ、程度の質量を伴うがそのことを感じさせない、軽やかで広がりを見せる「線」といったものである。
 普段、何気なく木を見上げるという行為をすることはあるが、幹から下に確かに伸びているであろう「根」というものを我々は観ることができない。小さい頃の記憶を辿れば、植物辞典などに図解があり、植物の地上に伸びた幹や枝葉と同じだけの広がりを持って植物の根は地中に張り巡らされていると解説があった。
 通常、目にしたり、触れることのできない地中の「根」というものの存在が仮に空間の中に木々を見上げるかのような光景として浮かべてみたとすればどのように見えるのだろうかというデペイズマン的な発想が常にあった。それは前回の個展のテーマでもあった「光の壷」が光の入口とすれば、「光の根」とは光の届かぬ地中に対し光を送り届ける末端なのではないだろうかという「根」の機能の逆説として捉え、そんなイメージを手がかりに、より構築的で、体感型の「空間に放たれたオブジェ」としての立体物を試みる。
 目にすることのできないものをみたいという欲求を満たしてくれたのが、幼い頃に手にした蟻の観察用の薄いアクリルで出来た飼育ケースであった。土を入れ、蟻を数十匹ほど飼育ケースの中に入れてやると、女王蟻がいなくても蟻たちはせっせと地中に巣を作りだす。それはさながら、地中から姿を消した根の痕跡のようであり、何かの体内を覗いているような錯覚にとらわれたような記憶がある。今から思えばまさに「光の根」である。
 「光の根」とは今回の個展のために作りあげた造語であるが、単なる作り手の妄想から生まれただけの言葉ではなく、瞑想の世界においては広く知られた言葉のようである。
 熟達した瞑想においては基本的な瞑想のあと自分の足に意識を置き、そこから地球のコアに向かって光の根が張っていくというイメージをするという。同時に今度は光の根をつたって、大地の母なるエネルギーが両足から体内に流れ込み、丹田あたりでスパイラル運動をするというようなイメージをもつという。これはイギリスにおけるスピリチュアルな瞑想の在り方だそうだが、日本における禅の考え方にも通じる部分があるのだと思う。その根底には人の体内の端々にまで張り巡らされた動脈と静脈に関係が深いのだろう。
 「人間は裏を返せば (物理的に内側と外側をひっくり返すということ) 植物に限りなく近い状態で存在している」という話を聞いたことがあるが、三木成夫はその著書『胎児の世界』の「万物流転—リズムの本質」で下記のように語っている。

生を象徴する「波」ということばは、もちろん水波から来たものだが、それは波頭の巻き込みが物語るように「渦巻き」の連なりから説明され、分解していけば、ついには「螺旋運動」に行き着くのであろう。この運動は、古来、東西の人びとからひろく宇宙形成の原動力としてとらえられてきた。ゲーテもその一人であるが、最晩年の論文「植物の螺旋的傾向」にもあるように、「天ノ命」として教えられた植物の生態からこの世界への道が拓かれたという。(中略)
一方、両端で固定された内蔵の管も渦を巻く。たとえば、口と肛門の両端で固定された腸管は、途中で左巻きと右巻きに捻転を起こし、また肝臓と鰓で固定された心臓の管も左右に捻れながら肥大してゆく。こうした捻れは卵管や精管にも起こり、しかもこれらの管のすべては、その壁がたがいに交織しながら螺旋状に走る繊維層でしっかり固められる。腸管を裏返した樹木の各層も当然これと同じだ。
そしてこの行き着く極微の構造として、染色体の二重螺旋が待ち受けているのであろう。(中公新書)

 根もまた地中の奥深くに螺旋状に回転しながら伸びていく性質があるという。作品の構造に直接的な螺旋を取り入れることはないが、地中の中に広がりを見せる根というものの持つ領域や構造を視覚化してみたいという欲求は人としてあるいは動植物としての本質なのではないだろうか。また、それは社会の中のさまざまなものの構造と語り合うのではないだろうか。

中川佳宣 Yoshinobu Nakagawa