farmar's pot

中川 佳宣
Yoshinobu Nakagawa

2000.5.12(fri) - 2000.6.15(thu)
13:00 - 19:00 日曜・祝日休廊
Closed on Sunday and National Holiday





ノートより

私の描くドットの付いた壷型をしたドローイングは6年ほど前、フワリと突然生まれてきました。絵画における「地」と「図」のことを自分の言葉で喋りたくて、朝早く学校の研究室で、スケッチブックの上に「地も図も成立しないとき」「地と図が成立するとき」の状況をあれこれ、言葉と簡単な絵で書き出していたときでした。分かりやすい図形(丸だとか四角といった)をスケッチブックより切り出して、新しいページの上に置きなおすことを試みていたとき、とても曖昧な関係が生じていることに気がつきました。目を凝らせば地と図の関係が存在しているのだけれど、何気なく立ち会えば、在るのだか無いのだかはっきりせず、何もしらない第三者が居合わせたとしても、スケッチブックの上で何が起きているのか気がつくこともなく、一時を同じ空間の中で共有したにすぎないような、つまり、「地」の上の「図」という関係が成立する以前のとても把握しにくい出来事がそこにあったわけです。

 それまで、"seed on the table" というシリーズでキャンバスの上にドットを付けた小さなドローイングを制作していました。薄い穴の開いた鉄板にろうそくの煤を落とし込みフラットな面を再確認するような仕事です。絵画というものが描かれた後のキャンバスの、絵画としての意味がなくなるまで絵の具を剥ぎ、限り無くもとのキャンバス(白い平面)の状態にまで還元することで、同時にそのもの自体が物であるということの確認をすること、その作業を経てドットを転写するという私自身の平面的なものを意識したアプローチを配することによって、地も図もないようなあるいは何でもないような薄っぺらなものとして(トランプのような)成り立たせることに興味を持ってくり返し制作していました。
 ただこの仕事は何でもないようなところを目掛けてのミニマルなドローイングなだけに、どこかで同じような単純な成り立ちで、平面としても同じような見え方のする、しかし私自身のものごとの捕らえ方、考え方といったものを含んだものへの憧れ、あるいは欲求というものがあったわけです。

 はじめの話に戻りますが、もともと同じ紙であったものを 片方が「地」もう片方が「図」という役割で、スケッチブックとその上に配したわかりやすい図形という把握しにくい出来事に、上から今度はパンチングメタルの平板の穴に蝋燭の煤を落とし込んでみました。結果として画面半分が点々だらけになり、ますます最初に起きた出来事はその存在をかき消され、白い地に黒い点々のある平面ということだけしか読み取れませんでした。しかし、そっと上にあるわかりやすい図形を取り去るとそこに「紙があった」という事実が残り、同時に取り去った図形自身にも同じくドットがくっきりと転写され、新しいページに前回と同じように配しても「地」と「図」の関係は、はっきりと認識できます。
 このことに興味を持ち、ドットというものを今までドローイングを描く際、イメージにおいて、あるツブツブ(種子であったり、シダの葉の裏の胞子であったり)を "seed" としてきました。同じものの考え方をするならば "seed" に何を対峙させればこのネガティブなものとポジティブなものの関係をうまく表現できるのかというところで壷という貯えるという機能を持った日用品に着目しました。それまでも壷の持っている特性にとても興味があったので、"seed" と壷の関係でドローイングを見せて行くことに決めたのです。
 私の考える関係というのはまさに「種壷」のことです。籾や豆をよい季節が来るまで大切に採っておく、そのための容器とそこへ貯えられるものとしての "seed" の関係をこの方法を使えばうまく描けるように思ったわけです。
 私自身、平面も描けば、立体も制作します。そのことについては今でも漠然としているわけですが、ひとつ言えることとして、能動的なもの、あるいは働きかけるといったものを想像したときにそれは立体物(壁にかかったレリーフも含めて)として現れ、それに対して、受動的なもの、あるいは働きかけにより、およぼされた結果、あるいは形跡として平面は存在するのだと思っています。池でも川でもいいのですが、「ある男が水面に向かって石を投げる」という行為を考えてみて下さい。石を遠くに投げる男の行為は能動的であり、その運動は三次元の世界に存在しています。では投げられた石について考えた場合、石は弧を描き水面に落ち、波紋を広げます。男の投石を水面が受け、結果として波紋がうまれたわけです。キャンバスにドットを付けたドローイングもいわば同じ考え方でできています。先に述べたドローイングの説明の中で、「なんでもないようなところを目掛けてのミニマルなドローイング」という言い方をしましたが、個人の中ではどこかで、投石をする男のこと、あるいは種をまく農夫の姿が気になっているのだと思います。そうした考えが、"seed" と壷の関係でドローイングを作ろうと思ったきっかけなのかのしれません。
 ドットを種と見立てるか、あるいは単なる水玉模様としてとらえるか、それはひとそれぞれの解釈に任せてきましたが、この "farmer's pot" において壷型の図形を用いることで、「壷とそれに取り込められる均一な大きさの、細かなツブツブ」という関係がみてとれます。しかし、ここで大切なことは壷型の図形はツブツブを取り込んでいるようであっても、実はツブツブによってその存在が明らかになっているという事実です。同時に壷型の図形がなければ、白い紙の上のツブツブは黒く滲んだ水玉でしかありません。互が互の存在を明確にしているわけです。当たり前といえば当たり前なのかもしれませんが、ここで面白いことは、互いにその意味をどこかで失い、相手によってもう一度明確なものに提示しなおされているということです。

 我々を取りまく、すべてのものはこの「する」「される」という関係の上に成り立っているといっても過言ではありません。人が人を求めたり、求められたり、傷つけたり、悲しんだり、と社会の中だけを、我々の身の回りだけを考えても「する」か「される」のどちらか一方です。
 画家はキャンバスに向かい絵を描きます。もちろんここでの受け手はキャンバスです。この構造はどうしても崩しようのない事実のようです。それなら平面の中で、「なんでもないようなところを目掛けて」いるにもかかわらず、実は2つのものの関係を並列に配しお互いの力関係を「無」にすることで平面であることの意味というものを問うことは出来ないのか、ということに興味があります。またそんなことができるのは絵画でしか思いつきません。つまり平面の中に何かものがあるときは必ずそれを支えているものがあり、このことは絵画における「地」と「図」のことにも関係してきます。テーブルの上の水差しのイリュージョンはキャンバスの上に絵の具によって描かれた痕跡です。
 "farmer's pot" は描かれたものが画面の中で何かに働きかけることを取り去るように仕向けたつもりです。また、描かれたものを支えているものにも効力を与えないようにしてきました。お互いの力関係がプラス、マイナス、ゼロのところに憧れを抱いています。また、「地」と「図」の関係も同時にゼロになる、言い換えれば「地」が「図」で「図」が「地」であることに興味があります。なかなか難しく、問題ばかり抱えていますが、単純な作業の繰り返しの中に様々なものが見え隠れしている昨今です。

中川佳宣