accumlation

児玉 太一
Taichi Kodama

2003.8.2(sat) - 2003.8.29(fri)
13:00 - 19:00 日曜・祝日休廊
Closed on Sunday and National Holiday

オープニング・パーティー (梅木香里展と合同開催) 2003.8.2 sat sat 17:00 -




2003年2月8日からスタートしたNomart Projects#2の後半1回目、児玉太一のLOFTでの個展 (梅木香里展と同時開催)。
シルクスクリーンプリントの技法で大判紙に幾層にも刷り重ねていったイメージの積層による大型の平面作品6点をメインに、A5サイズの小品を複数点制作・発表しました。

ノマルエディションの若手作家の発掘・育成プログラムとして2001年にスタートした「NomartProjects」。その第2弾として、今回は三脇康生氏(美術評論家, 精神科医)をキュレーターに迎え、ノマルエディション/プロジェクト・スペースのCUBEとLOFTの2会場において春に6人、夏に4人、計10人の若手作家の個展を開催。
前回#1ではグループ展+個展という形態でしたが、今回のプログラムは10作家、すべて個展での展覧会となりました。
各個展の狙いは、ある程度表現を持続させてきた若手作家が、いかに表現を見直し、展開させるのか、それを考察する瞬間につき合い、見守る─ノマルエディションが工房 (制作)・ギャラリー (発表)の場を与え、批評家としての三脇氏の用意する言葉を参照してもらう─ことにありました。
それぞれの作家のステートメントも伴いつつ、個展の度に企画者である三脇氏が文章を執筆し、発表されました。


作家コメント

緻密にかつオールオーヴァー状に堆積する表面とその先に見える風景が私を惹きつけてやまない。目の前にある壁が、近代的な構造物が錆びやほこりを纏うように、私は絵画を複数の層を用いて紡ぎたい。わずかな筆触が画面に隙間のイリュージョンをもたらし、瞬間に内部と外部の転化が発生しそこに新たな形態の風景が現出する。
手前から表面をなぞるだけでは充分に見えない。わずかな隙間を頼りに表面からその先を辿って。薄いヴェールに内包された世界を覗き見るような、そんな感覚を作品と自身の中に共有している。

児玉太一 Taichi Kodama


ー 三脇康生より児玉太一へ

「イメージの根源はあらかじめ存在するのでなく、でっちあげられなくてはならず、しかもそれは日本流の軽さも超えていなければならない」

画面が壁のような物質感を獲得するためには何をすればよいのか。ここ何年間かそのことばかり児玉は考え続けてきたように思う。取り敢えずは、壁の厚みが必要だろう。
厚塗りとか重ね塗りとかいう答えが簡単に用意される。しかし児玉が欲しいのは、壁の文字どおりの厚みよりも、実は壁に刻まれた形の存在感ではなかったか。とすれば、事体は深刻で、希薄な模様のコラージュとなりかねない、日本・現代・美術の画面の表面を「漂流」する空しい喜びを刺し殺してしまうことにまで至る必要が出てくる。
児玉はラウシェンバーグのように壁にパネルを立てかけ刷り上げる。しかも大型の画面故に3人で刷り上げる。刷り上げる時に指揮を取る児玉はまるで映画監督のようだ。
画面の構成に関して言うと、版に直接感光乳剤で目止めを施しネガティブに描いていく方法を取り、版に描いた部分にはインクが付着しない。オールオーヴァーに堆積していく皮膜の集積 (50回も繰り返される)が作品であり、描かれたイメージから見えるのは以前に刷られたかつての表面であるという特徴がある。
ここに、重ね塗ることで生じる物質感が、浮き足立たぬイメージをも発生させるという事体が、招来されている。イメージの根源は、なにか宗教的な形態から臭い立つのではない。根源は50回の3人による表面の集積から、発明されるのである。

三脇康生 Yasuo Miwaki


今展キュレーター: 三脇康生 Yasuo Miwaki

1963年生
京都大学文学部美学美術史専攻、卒
京都大学医学部、卒
フランス政府給費留学生としてパリ第一大学科学哲学科博士課程留学後、京都大学大学院医学研究科博士課程、修了

[専攻]
美術批評、臨床精神医学、精神医学の倫理・歴史・哲学
[著作]
「精神の管理社会をどう超えるか?」(松藾社)
「ア−ト×セラピー潮流」(フィルムアート社)
「ナルシシスムを静かに破壊せよ」(ノマルエデション) 他