common

稲垣 元則
Motonori Inagaki

2004.5.29(sat) - 2004.6.26(sat)
13:00 - 19:00 日曜・祝日休廊
Closed on Sunday and National Holiday






稲垣元則は、2002年に開催された当画廊における展覧会から映像作品を手掛けるなど、従来のドローイング中心の制作から幅を広げ、意欲的に作品を発表しています。今回の展示では、日記のように日々描いているドローイング112点と、デカルコマニーの手法を使った油彩作品に加え、新作の映像作品を展示。また、製本された白紙の本に油彩や鉛筆によってドローイングした作品集も発表いたします。


<作家コメント>

私がドローイングを好んでするのは肉声に近い生々しさがあり、現実的であると同時に、非常に柔軟で融通のきくものであるからだ。ドローイングは独立し、完成した作品である。
以前から継続しているB4サイズのコピー用紙に描かれたドローイングは、同じサイズという制約された中で日々繰り返される。それはサイズや素材を問題にする事よりも、つねに新しいイメージが定着され続けることが出来るかを問題としている。
ビデオ作品も紙のドローイングと同じ試みで作品として成り立たせている。もちろん紙での仕事とは方法が違うが、精神的運動は同じである。
ここにあるイメージはぶよぶよとしてやわらかい。

稲垣元則 Motonori Inagaki


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■当画廊マネージャーからのコメント

「稲垣元則展 common」によせて
稲垣元則は、不思議な作家だ。1971年生まれの32歳、まだ「若手」の領域にくくられる世代だが、その仕事は年齢を忘れさせる老成さを感じさせる。こう書くと誤解を招きそうだが、けっして“枯れて”いたり、成熟しているというわけではない。むしろ、ぎらぎらと“滾る”生々しさを常に感じさせてくれる。
意表をつくような派手なビジュアル—デザイン的でさえある—とは無縁な領域で、稲垣は毎日のように、ドローイングを続ける。B4サイズのコピー用紙にえんえんとドローイングを続けるスタイルは、すでに10年を越えている。
前回のノマルエディションの個展では、新作ドローイング、映像作品と共に、過去10年間のドローイング作品約3500点を収めたアーティスト・ブックを発表。そのおびただしい数が語る10年の軌跡は、ざわざわとした凄みを感じさせてくれた。ただ、この本の中の図版は、1点がせいぜい5センチ角程度の大きさなので、ぱらぱらとめくって見る程度では、稲垣の凄みを理解することは不可能かもしれない。鑑賞者は、その1点1点に対峙した(失敗やスランプの時期も含めて)稲垣にいかに同化するかという試練と喜びを味わうことができる。
稲垣元則という作家は、「話題性」とは無縁の作家かもしれない。一見すると、その仕事はキャッチーなビジュアルではないからだ。だが、学芸員やギャラリスト、コレクターの中に、稲垣のコアなファンともいえる人々が見受けられるのは、我々にとっての大きな喜びだ。一度稲垣という作家の深部に触れてしまうと、その仕事を、見続けずにはいられない。非常に根の深い、作家然とした作家という意味で、“年齢を忘れさせる老成さ”を感じずにはいられないのだ。
稲垣のドローイングは、時期をずらしながら、繰り返し同様のイメージが登場する。それは動物であったり、明確な植物であったり、あるいは不定形な線のつながりであったり—なのだが、執拗に、それは繰り返される。そのことについて、稲垣はこう記している。

"作品の中にあるイメージが、どのようなところから引用されているのかということは具体的に説明する事はできません。例えば、動物のかたちの描かれた絵もこのかたちに出会うまで描き続けました。求めていたのは、動物という言葉の意味などではなく、これからの日常の様々な時間や感情、現実に対応できるかたちを捕まえたかったのです。かたちのない抽象的な映像や、風景の写真についても同じです。
 だから描く以前になにか特定の物語や感情があったわけではないのです。もし絵の中に、なにか物語や感情みたいなものがあるとするならば、それは、絵の生まれる以前ではなくて、以後にありたいと思っています。"
(略)

日々繰り返される「描く」行為によって、稲垣の内にあるイメージが洗練され、明確な形を持つことはない。そのことに、なぜか凄みを感じるのだ。稲垣が自らの作品について「Drawing on Paper」「Drawing on Photo」「Drawing on Tape」と説明するように、メディアが違えど稲垣にとっての表現活動は、すべて「Drawing」に帰結する。
今回の展覧会で、稲垣は112点のドローイングと、映像作品を中心に発表する。映像の仕事は、前回のノマルエディションの展覧会より始まったものだ。リリースシートの〈作家コメント〉にも、稲垣はビデオ作品についても少し触れているが、彼にとっての映像は、ドローイングで繰り返される「精神的運動」と、一糸たがわぬものが見てとれる。風景や植物、あるいは自らの身体を使ったイメージの連続。そこに映っているものは、ドローイングと違って、確かにこの世に存在する現象であるのに、その現実に引き戻されることを許してくれない。今回の映像の新作は、6台のテレビモニターに投影され、ロフトの床面に並べられる。6つの映像は互いに干渉しあいながら、行きつ戻りつ稲垣の内の世界に引き込んでくれることだろう。
また、今回の展覧会における初の試みとして、ハードカバー仕様・A4サイズの本を6冊発表する。80頁の白い本6冊に、稲垣が直接、油彩を描くという作品集だ。ドローイングを抜粋して装丁するのではなく、間違いや失敗も含んで、稲垣が白い本を埋め尽くすという行為の集積といえる。展覧会まであと1カ月以上あるが、まだそれらの本は、最初の数頁しか描かれていない。油彩あるいは鉛筆によって描かれる本の完成が、待ち遠しくてならない。完成、という言葉は間違っているかもしれない。80頁を埋め尽くしても、それは稲垣にとっての完成ではないだろう。A4かつ80頁という制約を自らに課し、無理矢理に80頁目でその行為を終わらされる痛みを、今、稲垣は感じていることだろう。

30代前半。稲垣にとっての勝負は、ここ数年かもしれない。「ずっと描き続けていますが、それは、自己満足の行為ではないんです。人と共有することでしか、自分の仕事は成り立たないと思っています」。ともすれば自閉的との誤解を招くかもしれない仕事は、稲垣にとって自分の内を行き来する行為ではなく、内と外を行き来することを常に意識している仕事なのだ。
今回の展覧会タイトル「common」に、稲垣は内なる“基準”との意図を込めた。commonには凡庸という意味も含まれるだろうが、作家にとっての制作活動は、常に美しき凡庸であるべきだとも思う。
稲垣元則という作家の仕事を、多くの人に見ていただきたい、感じていただきたいと願っている。作家としての「存在意義」が、稲垣にはあると信じている。さらに作家としての「存在感」を身に付けることが、まだ年若い稲垣にとってのこれからの課題であり、その一端を担うことがギャラリストとしての役目だと思っている。

ノマルエディション 今中規子