Sequence - Movie

稲垣 元則
Motonori Inagaki

2016.5.14(sat) - 2016.5.24(tue)
13:00 - 19:00 日曜・祝日休廊
Closed on Sunday and National Holiday





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○ Opening party: 2016.5.14 sat 18:00

○ Talk event: 2016.5.20 fri 19:00 -
  Talk: 稲垣元則 x 鞍田崇氏 (哲学者)
  計3回にわたるトークのダイジェストムービー

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稲垣元則の視点を巡る、連続した3つの個展 −
“写真 - 映像 - ドローイング”
不可分な行為の繰り返しの先に見る未開の地平

作家活動の開始より四半世紀、つねに変わらぬ姿勢で自己と対峙し、写真や映像、ドローイング等のメディアを用いて作品の制作を続ける稲垣元則 。
そのスタイルは、幾年にも渡り同じ場所へ赴きカメラのシャッターを切る、身体の反復する動作を撮影する、日々同じサイズの紙にドローイングを描き続けるなど、一見単調な繰り返しに見えるその制作行程の中から、物事の抽象性や新たな視点を獲得し、主観を排した独自の世界観を確立。そのイメージは、見る人の意識の中に時間をかけて浸透し、記憶に残る深い印象を与えてきました。

今展では会期をアウトプットの技法に合わせ3回に分けて開催。各技法の特徴を顕在化させながら、稲垣作品の内に通底する“得体の知れない何か”を探り当てる試みとなります。


各会期ごとに稲垣作品を良く知る専門家をゲストに迎え、トークを開催 ー
作品の魅力をより深く知ることの出来るまたとない機会に。

"稲垣元則:Sequence - Photograph" 2016.4.23 sat - 5.10 tue
 Opening event:4月23日(土) 18:00- 無料
 Talk:稲垣元則 x 永草次郎氏 (帝塚山学院大学 教授)

"稲垣元則:Sequence - Movie" 2016.5.14 sat - 5.24 tue
 Talk event:5月20日(金) 19:00- 無料
 Talk:稲垣元則 x 鞍田 崇氏 (哲学者)

"稲垣元則:Sequence - Drawing" 2016.5.28 sat - 6.18 sat>
 Opening event:5月28日(土) 18:00- 無料
 Talk:稲垣元則 x 加須屋明子氏 (京都市立芸術大学 教授)

.es (ドットエス) “曖昧の海”レコ発 & 展覧会関連 Live “Sequence”
 6月18日(土) 19:00 - 料金 ¥2,000.-
 ※ 稲垣元則とのコラボCD「曖昧の海 / Ambiguity Sea」を進呈
 出演:.es [ドットエス: 橋本孝之 (sax) & sara (piano)]


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作家コメント

稲垣元則:Sequence - Movie
現実を写し、その背後にあるなにかを浮かび上がらせる「Movie」

観察したその動きや色彩は実在のものではなく、それらを受け止めたときの感覚にもとづいている。感覚は公平にものごとをとらえることができず、とても不公平に受け止める。
あるがままの景色から、別のある方向へ加工する。受け止めたその感覚に引き寄せるように時間、色彩、フレームを加工する。
公平にとらえてしまうカメラから、その不公平さを再現し、それらを集めてまた観察する。

稲垣元則 Motonori Inagaki


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「現象学は好きじゃありません」。
鞍田 崇

もう10年近く前になるが、某学芸員からそういわれたことがあった。「これは現象学的ではない」。別の機会に、ある批評家が、そう作品解説するのを耳にしたのも、ちょうどそのころ。そうか、アート業界では、現象学ってウケないんだ。居心地の悪さ――というのは、現象学は僕の哲学の出発点でもあったから――を抱きつつ、件の学芸員に理由を尋ねてみた。「だって、現象学は曖昧だから」。たしか、そんな風な返答だった気がする。 どうして曖昧さがけむたがられるのか、それ以上つっこんで詳らかに聞いたわけではないし、はたしてそういう評価が業界全般に共有されているものなのかも、確認したわけではない。けれども、あえてこんな話をしたのは、稲垣元則の作品が、きわめて現象学的だからだ。曖昧だからではない。曖昧な事象を扱おうとするのが現象学だからである。
たとえば、時々刻々と変化する風や光のうつろい。あるいは、視覚では捉えようのない雰囲気や空気感もそうだし、気分や感情もそうだろう。いや、そもそもそうした名指しをスルリとすり抜けてしまう、曖昧な“何か”。曖昧さの中でしか体験できない“何か”。振り返った途端、曖昧さの中に逃げ込んでしまう“何か”。
曖昧さを抜きにしては語ることができない、そんな“何か”こそが、僕たちにとってもっともなじみのある日常であり、じつはもっともリアルな経験といってもいい。それを捉えようとするのが、現象学という哲学的探究である。曖昧なものをただ「曖昧」というだけでは探求にならない。でも、曖昧さを別物にすり替えるぐらいなら、いたずらに手を出さない方がいい。現象学の魅力は、こうしたスリリングなまでの機微にある。それと同じ魅力を、僕は稲垣の作品にも感じる。
もちろん、そんな稲垣の作品が僕は大好きである。


鞍田 崇 Takashi Kurata (哲学者)
1970年兵庫県生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科修了。博士(人間・環境学)。総合地球環境学研究所を経て、現在、明治大学理工学部准教授。環境人文学という視点から、様々なジャンルを手がかりとして、現代社会の思想状況を問う。
著作に、『知らない町の、家族に還る。』(共著、2016)、『民藝のインティマシー 「いとおしさ」をデザインする』(2015)、『「生活工芸」の時代』(共著、2014)、『人間科学としての地球環境学』(共著、2013)、『〈民藝〉のレッスン つたなさの技法』(編著、2012)、『雰囲気の美学』(共訳、2006)など。現在、月刊誌『なごみ』(淡交社)にて、「茶の湯と民藝―そのまなざしの先へ」連載中。